はいくふぃくしょん中嶋憲武による掌編小説

第4話2021.6.20

哀愁くん

中嶋憲武

 ひとりでいると、途轍もなく不安になる。九時半を回った。このところ残業つづきで、帰宅は毎晩遅い。十一時帰宅、一時就寝、六時起床、八時出社。その繰り返し。あと十余年もすれば定年だが、いつまで持つのやら。

 学生時代、サークルの後輩だった妻と七年つき合って結婚。二子玉川のマンションに住み、愛車はアウディ。息子二人は今春、それぞれ社会人となる。絵に描いたような勝ち組人生と、人は言うだろう。休日ともなれば、妻とゴルフに行ったり、旅行したり、いまだラブラブである。

 しかし時々、体の中を風が吹き抜けるって、佐多稲子じゃないけど、ぽっかりと小さな空虚が顔を覗かせる。SNSに「会社辞めたい辞めたい辞めたいよおお」と書き込んだ。私にしてみれば、逸脱した書き方だったと思う。無意識。そんなものが切羽詰まった状態で、叫びを挙げるのか。

 お茶を一杯飲む。先刻、クロカワ君が入れてくれたお茶だ。クロカワレイコ。営業局の広い室内に、彼女と二人。二十四だと聞いたが、なかなかの頑張り屋さんだ。おっ、目が合った。今度、日頃の労をねぎらうために食事に誘ってみるか。これは断じて横しまな心からなどではない。彼女の明るさに幾度救われたことか。私の中の隙間風を止めてくれる営業局唯一の存在と言っていいだろう。見積書もだいたい片付いたし、一服でもして来ようか。

 二十五階の非常口で、風に吹かれて煙草を吸う。星がきれいな夜だ。深く深く深呼吸。

 目が合っちゃった。やな感じ。局長の布施さんは、バブル期の入社で美人の奥さんと優秀な二人の息子に囲まれて、平穏な暮らしをしているらしい。なんか住む世界が違うって感じ。いつか社食で一緒になった時、学生の頃は哀愁くんって呼ばれてたって言ってた。どうしてですかって聞いたら、眉と目が八の字の形に下がってて、哀愁溢れる顔つきだったからだって。今でも充分、哀愁くんだよ。

 さっき、煙草吸いに外に出てったと思ったら、戻ってきて、クロカワ君、今夜は星がきれいだよ。なんだか詩でも書けそうだねって言って笑った。わたしもつき合って笑った。詩なんか書いたことない癖に。たまに言うことがキザで、癪に障るよ。疲れた。毎日、ムダに疲れる。それにしても、この部屋空気悪いし、圧迫感があって息がつまるよ。もう帰ろう。帰って、シャワー浴びて寝よ。

 晩年の父の言葉を思い出す。お前の一番の仕事は子育てだ。子育てに専念しなさい。私はここ十年というもの、何時も子供のことを思い、考え、行動してきた。

 これでよかったのだろうか。分からない。いくつになっても人生は分からないことばかりだ。星を見上げて、無限の未来を信じていた子供の頃が懐かしい。

 家の灯が近づいて来た。妻はもう寝ているだろうか。ただいま。

木枯しやビルのあはひのぴしと星  乙訓淑子  (2013年2月号 梨花集より)              

炎環 2013年5月号より転載

 

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