はいくふぃくしょん中嶋憲武による掌編小説

第11話2022.4.30

海上の白薔薇

中嶋憲武

 海から戻っても、梨香は冴えない表情のままだった。昨日、久し振りに家族四人揃ったので、たまにはという事で海辺のレストランへ食事に行った。レストランの前の小さな国道を渡ると海で、店へ入る前に浜辺を散歩した。夕方というより、もう夜といってもいい時間だったが、まだまだ明るくのびのびとした気分になった。

 長男の和浩が頓狂な声を挙げた。妻も梨香も和浩の傍へ集まった。みなのみている和浩の足下をみると、三十セントほどのアメフラシだった。和浩も妻も不気味そうに眺めて、何だろう、いやあねえなどといっている。梨香は一言も声を発しない。

「アメフラシだよ。ウミウシと呼んでるところもある」
「食べられるの」和浩は珍しいものをみた時、必ずといっていいほど食べられるかどうか聞く。
「毒があるから食べられない。だけど隠岐とか房総の一部では食べられるらしい。地域差があるんだね」

 私はその軟体動物の暗い表皮をみると、北アメリカ星雲を思った。小さな白い斑点が、無数の星のようにみえる。梨香はその無数の星をじっとみていた。

 レストランでも梨香は、うんとかそうだねとか曖昧な応答をしていた。借り物の体がそこにあるだけで、魂は今ごろ北アメリカ星雲を彷徨しているようにみえた。和浩がエスカルゴを食べながら、アメフラシってこんな食感なのかなと呟いていてさえも。

 その夜。ベッドに横になりながら、妻にいつもと違う梨香の様子について聞いてみた。一番仲良くしていたアヤカちゃんが北海道に引っ越しちゃったんだって。妻は私の胸に暖かい手のひらを置いて、そういった。アヤカちゃんならよく知っている。家へ遊びに来た事もあるし、梨香とアヤカちゃんとその友達を連れて、海へ行った事もある。高校はどうすんだ。編入じゃないの。手をつないでよく一緒に歩いてたなあ。手をつないで。そうなの。妻はそういって、小さな欠伸をすると目をつむった。

 日曜日。梨香と海へ行った。梨香が小さい頃は、都内の団地に住んでいた。デパートへ買物に出掛けた帰り、デパートの前からタクシーで帰って来た。タクシーの中でぐっすり眠っていた梨香は、揺り起こされると自分の団地を不思議そうに眺めた。海へ行くんじゃなかったの。梨香は夢でもみていたのか、そんな事を呟いた。やだ、海行く海行くと叫ぶと大きな声で泣き出した。ヘッドレストにしがみついて降りようとしない梨香を、宥めたり叱ったりして、やっとの思いで引きずり降ろした。

 海の上の白薔薇のような雲。梨香は静かだ。あの時のように泣き叫んでくれたらいいのに。私の後を黙ってついて来る。

 家の門へ通じる細い路地。人ひろり通るのがやっとだ。梨香が後からついて来る。買ってやったジェラートを舐めながら。

枇杷熟るる子の哀しみを領ち得ず  こがわけんじ   (2013年9月号梨花集より)              

炎環 2013年12月号より転載

 

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